漱石とくまもと



漱石、熊本へ

 明治29(1896)年4月13日、漱石は熊本・池田停車場に降り立ちました。現在の上熊本駅です。第五高等学校の教授で漱石の友人であった菅虎雄が出迎えました。借家が見つかるまで漱石は黒髪村宇留毛の菅の家に同居することになりました。

 熊本に初めて着いた時の印象を明治41年、九州日日新聞社(現・熊本日日新聞社)の記者に聞かれ、まず、駅前の道幅の広さに驚いたことを述べています。さらに京町台を横切り、坪井に下りる新坂にさしかかったとき、目の前に開けた一面の市街地に再び驚き、「いい所に来たと思った」と言います。漱石は、そこから眺めた風景を「家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻って居るといふ絶景、実に美観だと思つた」(「九州日日新聞」明41・2・9)と語っています。熊本を離れて8年もたっているのに、まるで今、熊本の風景を見ているかのようです。

 明治29年4月14日、漱石に嘱託教員として1か月百円の給料を贈与するという辞令がおります(7月9日から教授)。この日から、五高の先生としての生活が始まったのです。

 五高の生徒は礼儀正しく、漱石は「着実で質素で東京あたりの書生のやうに軽薄で高慢痴気な所がなく、寔に良い気風」(「九州日日新聞」同前)と思ったようです。

 ただ、借家がなかなか見つからないことには、大変不愉快な思いをしました。5月3日付の水落露石宛の手紙では、あちこちの家をずいぶんと訪ね歩いたけれど、まだ1軒の借家も見つからず、相変わらず友人(菅虎雄)の家にいることを訴えています。ようやく借家が見つかって菅の家を出たのは5月9日ごろでした。愛媛県松山尋常中学校の校長となった横地石太郎に宛てた5月16日付の手紙に漱石は「一週間程前敗屋(荒れ果てた家)を借り受候へども何分住みきれぬ故又々移転仕る覚悟」と書き送っています。それからどれほどたって新しい家が見つかったのかは明らかではありません。しかし、6月6日付の手紙は「熊本市光琳寺町より」と書かれていて、すでに移転したことが分かります。これが下通百三番地(現・下通1丁目7-16か17)、通称光琳寺の家―熊本で2番目に住んだ家です。

(出典:2018年2月 熊本市広報課発行「漱石とくまもと」)

熊本の漱石 略年譜

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熊本時代の足跡と俳句

出版物の紹介(2018~2019年)

著書 著者 出版年月 出版社
漱石の記憶 夏目漱石生誕150年 没後100年 夏目漱石記念年100人委員会 2018年12月 熊日出版
夏目漱石の見た中国 『満韓ところどころ』を読む 西槇 偉(編著)坂元 昌樹(編著) 2019年4月 集広舎 
漱石がいた熊本 村田 由美 2019年5月 風間書房