明治43年の修善寺の大患の際に、漱石「修善寺日記」が、〈一等軍医正矢島氏伊東迄来れる序にと見舞はる 森氏の命令也〉(9月18日)、帰京して長与胃腸病院に再入院中にも〈鷗外漁史より「涓滴」を贈り来る。漱石先生に捧げ上ると書いてありたり 恐縮〉(10月18日)と記すような厚情を、鷗外は寄せた。鷗外が見舞を託す一週間前の9月11日、千駄木の鷗外邸を訪れた木下杢太郎は、交わされた様々な話題を日記に書き留めたが、〈Natumé氏のことなど話す〉との記述を、この日の対話をまとめた「或日の森鷗外先生」(昭和5年)で次のように補足した。
この機会で森先生の夏目観の一端を附言しよう。「えらい」といふ言葉で森先生は夏目先生を評してゐられた。あの男はえらい人であると。自分も一度会ひに行きたいと思ふが、まだその機会を得ずに居るといふやうなことである。青楊会では両先生は既に相会して居られるから、少しは何か話されたことがあるだらうと思ふが、特に夏目先生をその邸に尋ねたいと言ふのであつたらう。
漱石への畏敬を率直に吐露する鷗外がここにはある。鷗外と漱石の序文を得て小説集『唐草表紙』(大正4年)を上梓した杢太郎は、〈鷗外は日本人の自覚してぶつかるべき大問題の鉄壁にぶつかつて行つた最初の人と思ひます。即ちギリシア ― ルネサンス文化(道徳)と東洋文化(道徳)との相触れる時必ず起るべき濁濤に孤舟を棹さしたのです。〉と述べた(昭和16年11月7日伊藤至郎宛書簡)。那古井の山里に東洋的認識を以て臨んだ画工が、那美さんに必要な憐れを見出したのはしかし、二十世紀西洋文明を代表する汽車が発着する吉田の停車場であった。「草枕」(明治39年)のこうした帰趨に照らし、漱石もまた杢太郎のいう「大問題」を創作の立脚地としていたのである。
古郡康人(元静岡英和学院大学教授)令和8年5月掲載
熊本で漱石が訪れた温泉地といえば、「草枕」の舞台として知られる「小天(おあま)」が有名だ。漱石は温泉を好む人である。五高で教鞭を取り、暮らしていた4年半の間に、ほかにも足を運んでいたはずだと調べていたら、明治31年11月、五高の修学旅行の付き添いで、山鹿(やまが)温泉を訪れていた。第五高等学校校友会誌「龍南会雑誌」のなかで、漱石が山鹿温泉について記述したという一文にはこう書いてある。
「山鹿温泉は熊本を距(へだた)る北微西七里にあり城北第一の繁華の地なり/町の中央に温泉あり是れ一名湯町の名起る所以なり/濡装を脱ぎて霊泉に浴す所謂是れ一浴陶然四体伸もの誰れか快哉を叫ばざるものあらんや」
町の中央にある温泉とは、「さくら湯」のことだ。
山鹿に暮らすわたしにとっては嬉しい発見だが、同時に、山鹿を舞台にした小説が書かれなかったことを残念に思う。
当時「さくら湯」は、大規模な改修工事が始まったばかりだった。棟梁はなんと、道後温泉を手掛けた坂本又八郎。わざわざ松山から招いていたのである。工事は31年7月から一年かけて行われ、完成したのは翌年。漱石が訪れた11月はまだ、道後温泉と同じデザインの「唐破風玄関」も出来ていなかったに違いない。漱石が、慣れ親しんだ道後温泉の雰囲気を感じ取っていたら、その後も何度か通っていた可能性はある。
「坊ちゃん」が山鹿を舞台に書かれていたら・・・。悔し紛れの妄想は尽きない。
木庭撫子(映画『骨なし灯籠』脚本・監督)令和8年1月掲載
漱石が熊本在住時の体験から構想した小説『草枕』『二百十日』と、旧制第五高等学校の経験を散りばめて書いた『三四郎』の3作品を熊本三部作と呼びたい。書くときは視覚的な印象を考慮し、熊本をかな書きにして「くまもと三部作」と表記することにする。教師時代に書いた前の2作品に対し、『三四郎』は東京朝日新聞社の専属作家として書いたものだが、それらは一括りにできる親和性を持っている。
これらの作品は、漱石の啓蒙精神に満ちた教養小説であるとともに、完成度が高い。巧みな表現と文体に込めたメッセージは人間の情感に訴える直球で、普遍的な問題提起がある。登場人物のやりとりが楽しめる一方で、考えさせる小説である。くまもと三部作を読むと、私は漱石の熊本時代が精神的な充実期であったことを思う。その点でも、くまもと三部作という括りは意味がある。
『昭和史 1926-1945』や『ノモンハンの夏』などの著作がある歴史探偵の半藤一利は、漱石の傑作として『吾輩は猫である』『坊っちやん』『草枕』を挙げた(『漱石先生ぞな、もし』)。専属作家としての気負いのようなものがないところを評価していると見られる。その姿勢は、『二百十日』にも『三四郎』にも当てはまるだろう。人の好みや評価はそれぞれであるが、漱石の優れた小説を3つ選ぶときには「くまもと三部作」が候補になることを見逃してはならない。
半藤英明(理事長・熊本県立大学名誉教授)令和7年7月掲載
漱石が明治29年4月に赴任した旧制第五高等学校は、嘉納治五郎校長の後任である中川元校長、桜井房記教頭のもと、優秀な教員を配して充実期にあった。五高は東京の第一高等学校その他の教員養成機関でもあった。五高教師として後輩の漱石を五高に招いた菅虎雄は、後に一高教師となった。五高で鍛えられ、その後は漱石も、親友の山川信次郎、狩野亨(こう)吉(きち)も一高に移籍した。明治期には政治経済の分野のみならず教師の人事も人脈が肝心であった。
初任地となった松山での教師経験のあとの五高教師時代は結婚、長女誕生という変化に加え、教師として充実していた。よく学び、周囲に鍛えられ、豊かな人間関係を築いた。それらが当時の漱石の評価につながる。なりたての教師は、苦労しながらも力をつけ、蓄えてゆくものである。漱石もそうであった。熊本は、漱石が教師として生きた土地であり、教師としての充実感を持った土地である。
漱石の人生は50年で、加藤清正や西郷隆盛と同じである。そのうち熊本での4年3か月を含む約14年を漱石は教師として過ごした。大人が過ごす14年は長い。この間に小説『吾輩は猫である』『坊つちやん』『草枕』『二百十日』『野分』を発表したが、その後、小説家として過ごしたのは10年と少しである。漱石は小説家より教師として生きた時間が長いのである。漱石が教師であったことは、小説家としての漱石に強く反映されることになる。
『こころ』を読むと理解しやすいと思うが、真面目で学究肌の漱石にふさわしく彼の小説や講演はほぼすべて人倫、道徳、秩序がテーマである(『坑夫』『道草』が外れる)。明治期には徳義や修養という言葉も使われ、漱石も好んだ。漱石は自由、個人という近代的価値観よりも、それらの価値を重んじた。漱石の小説は、自由、個人、人倫、道徳、秩序のすべてを現実らしく描くことにあったと言っても過言ではない。
世間的にみれば、人倫も道徳も秩序も、いかにも教師が使いそうな言葉であり、好みそうな価値観である。漱石の小説は夫でなく、親でなく、男でもなく、教師である漱石が書いたものである。つまり、漱石は、教師らしい自覚のもと、教師が書くような小説を書いたのであった。
半藤英明(熊本県立大学教授)令和6年3月掲載
姜尚中氏が「真の意味で真面目な人」(「漱石の死生観」ホテル日航熊本、平成28年5月14日)と語る漱石は1867年(慶応3年)に生まれ、1916年(大正5年)に没した。ほぼ同い年で水俣に生まれた徳冨蘆花は1868年(明治元年)に生まれ、1927年(昭和2年)に没し、漱石よりも十ほど長命であった。小説の趣は大きく異なるが、両者を比較すると面白い。
裕福な家に生まれた末っ子の二人は何不自由のない人生とはいかず、悩み苦しみ、自らの居場所を探し続けた、いわば求道者である。どことなく奔放な性格が似てもいる。漢詩漢文の素養深い漱石は立身出世の道具として英語を学び、五高、帝大などの英語教師となった。蘆花は家族とともにキリスト教の影響を受け、熊本英学校で英語を教えるまでになった。二人の文才はジャーナリズムに刺激されながら新聞小説という場で開花した。漱石は趣味の俳句をたしなみ、蘆花は歌を詠んだ。このような類似点は二人の作家を理解するに見落とせぬ要素である。鏡子夫人と愛子夫人の役割も欠かせない。誤解を恐れずに言えば、二人とも奥方に悩まされ、しかし、奥方に救われた人生である。
蘆花は大正5年12月10日の日記に「今朝、書院で報知を見たら、漱石が昨日夕方、胃潰瘍で死んで居る。年は五十だ。」と書き、「毎夜読む〃明暗〃が絶筆にもうなつたのだ。」と突然の死を悼んでいる(筑摩書房『蘆花日記』第4巻、38~41頁)。意外にも素直な蘆花の「追悼文」に漱石への片思いが見え隠れする。「先日も一寸彼の死を望む(ではないが、悲しまぬ)心が動いたので、今日は余計に気の毒になつた。」には少しの後悔が、また「一方は出来て、一方は出来ぬ人間だが。」と自分を卑下しつつ「彼も独立、俺も独立で、少しも党同などしない」には同士への親近感が見える。「漱石の死は、同業、似寄つた位置、近い年齢と云ふので、余に大分の打撃であつたやうだ。尊敬と興味を以て見る人をなくすことは、其人の不幸に違ひない。」とレトリックで本音をさらし、日記のまとめに次の句を置いた。
雪降るや枯るゝ尾花も小笹にも
「枯るゝ尾花」はこの世を去った漱石であり、「小笹」が生きている自分である。雪の景に漱石と自分とを表現し、別れを惜しんだ。おそらくは蘆花から漱石への片思いは雪の下にでも隠しておきたい、密かな愛情ではなかったか。
半藤英明(熊本県立大学学長) 令和2年2月掲載
漱石が第五高等学校(五高)の英語教師として熊本にやってきたのは明治29(1896)年4月13日。池田駅(現上熊本駅)に降りたった漱石は、五高招聘に尽力し、五高のドイツ語教授だった菅虎雄の家に寄宿した。菅は漱石より2歳年長で、終生親しい友人だった。能書家としても知られ、漱石の墓碑銘も菅の手による。この菅の家は長い間、熊本市薬園町と言われていた。しかし平成29年、尚絅大学学長森正人氏が菅の妹ジュンの学籍簿を発見し、記載されていた住所から、菅の住居が黒髪村宇留毛430番地(現熊本市中央区黒髪6丁目)であったことを発見したのだ。
漱石は4年3ヶ月の熊本滞在中、この菅虎雄の家を振り出しに2週間ほど住んだ「敗屋」、下通町103番地の家、合羽町の家、大江村(現熊本市中央区新屋敷)の家、井川淵町の家、内坪井町の家、北千反畑町の家、と転居を繰り返した。そのうち大江村の家、内坪井町の家、北千反畑町の家は100年の時を経て現存している。大江村の家は移築されたが、内坪井町の家と北千反畑の家は漱石が住んだときと同じ場所に建っている。これは熊本だけだ。東京にも松山にも漱石の住んだ家は現存しない。唯一残っているのは、森鴎外も住んだという千駄木の家だが、移築されて愛知県犬山市の「博物館明治村」にある。
漱石が引っ越しを繰り返したため「引っ越し魔」と称し、漱石が神経質で近所とトラブルを起こしていたかのように言う人がいる。しかし引っ越しを繰り返したのは漱石だけではない。当時五高の職員は、中川校長をはじめとして、県外出身者が多かった。15人の教授中、熊本県出身者は五高卒業でもある武藤虎太ただ1人で、14人が県外出身者である。教授たちはそれぞれ借家住まいで、夏休
みなど長期に家を空ける際は、借家を解約し、帰熊後新たに住居を借りた。五高記念館に残る資料がそれを裏付けている。
「敗屋」と漱石が呼んだ最初の家は鏡子夫人を迎えるのにふさわしくなかったのだろう。「当地非常に家屋払底にて漸くの事一週間程前敗屋を借り受候へども何分住み切れぬ故又々移転仕る覚悟」(明29・5・16横地石太郎宛)と述べている。1ヶ月ほどで下通町の家に移った。ここで、漱石は中根鏡子と結婚したが、隣が光琳寺で墓場があり、夫人が怖がったという。次に借りた合羽町の家は新築だったが、鏡子夫人に間数ばかり多くて「がさつ普請の家」(夏目鏡子述『漱石の思い出』)と酷評された。この家を引き払ったのは、漱石の父の死去のため、2人で上京したからだ。
東京から帰った漱石は、東京で勤務中のため空き家であった落合東郭の家を借りた。しかし、家主の急な帰郷で家探しをしなければならなくなり、井川淵町の家に移った。明午橋近くの二階建ての家だったが、部屋数が少なく手狭だった。しかも、鏡子夫人が流産の後、ヒステリー症状を起こすようになり、明治30(1897)年5月に白川に落ちるという事件が起こったため、川縁の家から離れ
る必要があった。その家を提供したのが当時教頭として赴任していた狩野亨吉だった。狩野は夏休みに入るとすぐに漱石夫婦のために自分が住んでいた家を提供した。これが現在「夏目漱石内坪井旧居」として保存されている家である。
熊本で住んだうち最もいい家、と鏡子夫人に称されたが、明治33(1900)年4月、漱石は新築の2階建ての家を見つけ、引っ越した。北千反畑町の家だ。この家の持ち主である磯谷家には「2階を書斎にしたい」と言って漱石が借りにきたという話が伝わる。この家を最後に漱石は英国留学のため、熊本を離れる。これが漱石の引っ越しの顚末である。
村田由美(熊本大学五高記念館客員准教授、玉名市草枕交流館館長)令和2年2月掲載
漱石は4年3ヶ月の熊本時代、「敗屋」を振り出しに7軒の家に住んだ。その最後の家が、北千反畑町の家である。藤崎八旛宮近くの閑静な住宅街にある2階建ての家で、漱石がいたときと変わらない場所に建っている。他の家が余儀ない事情での引っ越しだったのに対して、ここだけは漱石たっての希望だったようだ。家主だった磯谷家に伝わる話では、五高に通う道すがら、2階建ての家ができるのを見て、「2階を書斎にしたい」と完成を待ってすぐに借りに来たという。熊本の家では、井川淵町の家も2階建てだった。大江村の家の立ち退きを求められて、間に合わせに借りた家だったが、2階建てに惹かれたのではなかっただろうか。そこでも2階を書斎にしていたが、あまりに手狭だったし、鏡子夫人の事件も起き、白川から遠ざかる必要があった。
「春の雨鍋と釜とを運びけり」
北千反畑町の家への引っ越しを詠んだ句だが、この句から引っ越しは明治33(1900)年4月1日日曜日、春休みの始まった日ではなかったかと推測される。4月5日に友人に転居通知を出しており、4月にはいってから雨が降ったのはこの1日だけだからだ。この日は朝から夕方まで1ミリ弱の雨が降り続いた。「鍋と釜」より漱石の蔵書が引っ越しの荷物の大半ではなかったかと推測される
のだが。漱石は喜々として2階の書斎に本を運んだのだろう。
後に東京で漱石は3度転居したが、本郷西片町(現文京区)の家がやはり2階建てだった。石崎等氏は『夏目漱石博物館』(2016・5、彰国社)で、この家に住まなければ、『三四郎』で「皆より早く西片町10番地の広田先生の借家に到着した三四郎と美彌子が、二階から白い大きな雲を眺めながら、初めて親しく口をきき合うという名場面はありえなかった」と述べている。美彌子は三
四郎に「あなたは高い所を見るのがお好きの様ですな」と評されるが、漱石自身がそうだったのかもしれない。
熊本時代の漱石には、まだ作家としての片鱗もない。しかし、この書斎で漱石は夜遅くまで勉強した。山崎貞士氏の『熊本文学散歩』(昭51・4、大和学芸図書)には「隣りに住んでいた磯谷氏が夜中にいつ起きてみても、二階に灯りが点っていて、漱石の勉学しているけはいがうかがわれていたという」と書かれている。
漱石は、友人への転居通知に住所を「熊本市北千反畑丁旧文学精舎跡」と書いた。実際の番地は78番地である。文学精舎は明治23(1890)年創立された私立学校で、創設当時は屈指の規模を誇り、同24年には女子学舎を併設したものの、26年廃校となった。漱石が、赴任の前に廃校となった文学精舎についてどの程度知っていたのかはわからない。もともと仏道を極めるために修行者が住む建物が「精舎」の意味である。「文学」はここでは「学問」の意味であるから、文学精舎とは学問を極めるための場所という意味だろう。しかし、漱石にとって「文学」はまさに「文学」そのものだった。「文学」を極めるための場所ーとして「文学精舎」という名称が気に入ったのではないだろうか。
明治33年6月、文部省から英国へ2年間の留学命令が出て、漱石は7月15日熊本を出発した。漱石の離熊後、この家には五高のドイツ語教師をはじめとして何人もの五高生が下宿し、巣立っていった。漱石のみならず、五高にとってもゆかりのある旧居が北千反畑町の家である。
村田由美(熊本大学五高記念館客員准教授、玉名市草枕交流館館長)令和2年2月掲載
